吉川英治の「宮本武蔵」

 吉川英治の「宮本武蔵」は、昭和10年8月から昭和14年まで、朝日新聞に連載をされた新聞小説であった。冒頭には、映画のシーンでも有名な場面がまず登場する。関ヶ原の合戦に若干17歳の武蔵(たけぞう)は同郷の幼なじみの友又八と共に豊臣方(西軍)の兵として功名心に燃え槍一本をかついで参加した。

 彼らは敗戦の落ち武者となり、紆余曲折の果て、武蔵一人が郷里に帰り着くが、その事が彼の郷里の騒動となる。沢庵僧侶の手によって千年杉のこずえに縛られくくり付けられて、雨ざらしにされた嵐の晩、彼を今生の唯一の人と慕う、お通さんの手によって縄を解かれ、二人は郷里を出奔する。あまりにも有名な最初のドラマの場面だ。

 昭和14年に連載が終了したと言うことは、昭和16年から始まる太平洋戦争の以前に物語が完成したと言うことである。戦後、何度も版を重ね、大家となった吉川英治氏のこの作品は、作者が昭和37年に没するよりも前、昭和28年頃には、すでに「古典的名作」「国民文学の代表作品」と呼ばれた。

 自分の手元に今あるのは、講談社の吉川英治歴史時代文庫14~21の全8巻からなる文庫本である。壮大なドラマが展開されるこの大河小説の結末の場面を作者は最初から決めていたと言う。これも、講談などであまりにも有名な、九州は関門海峡になる船島(巌流島)での佐々木小次郎との対決試合の場面である。

 当初、新聞の連載は200回ぐらいを予定されていたが、その流れは感動を呼び読者、新聞社の熱望によって1000回を越える大作に発展した。作者が結びの筆を置いた時に、吉川英治さんの体重は十二貫あったものが十貫台の痩身になっていたと言う。文字通りのまさに骨身を削る著作であった。

 吉岡一門の剣術道場の驕慢した門下の武士たちと一乗寺下り松での最終遺恨試合の決死の闘争や、柳生の庄ではついに石舟斎にお目もじかなわず、その挫折感を味わうなど、そして最後の巌流島での佐々木小次郎との決闘のその結果は読まずとも、それら諸々は映画の一部などで見知っていた。自分には読む前からとても馴染みを感じる書ではあった。左の手に小刀を持ち、右の手には大きな刀を持つ、その二刀流の円明の流儀や箸の先で、飯粒の上にたかる蠅をつまんでしまうその剣の技倆や、下総の国(現在の行徳や船橋市のあたり)へ下り剣を捨てその土地の開墾にあたり、画を描き、仏の木像を彫る。

 吉川英治さんは、この作品を著するにあたり、人間武蔵(むさし)の求道の様を描こうとした。この「宮本武蔵」と言う小説は、「ビルドゥングスロマン」=(自己形成小説)と言われる。武蔵を、剣の道に人生の道である哲学を求めた人と捉えた。また、この大河小説はその大河小説ゆえに、その他の様々な登場人物の人間模様も見事に活写している。

 自分が、この長編小説をひも解こうと思い立った理由は2つある。一つはお通さんと武蔵の恋慕の行くへは、最後はどうなるのか自分は知らなかったこと。殊に、お通さんと言う人の言動に興味を持った!。果たせるかな、彼女の祈願の恋愛の成就は、それは皆様読んでのお楽しみ!?しかし、同じ女性として、彼女の乙女心とその鏡の表裏である修羅の場とを自分は十分に堪能することが出来た。(アタシも年をとったものだ。)

 もう一つのこの大河小説を読もうと思い立った理由は、ふとした私事によってであった。自分の家は禅宗の寺に属している。ある時の法事で、又八の母親であるお杉ばばが、祈願をして千部を写経しようとしていた、仮名がきの経典である、「仏説父母恩重経」(ぶっせつ ぶもおんじゅうぎょう)を法要で自分が読んだことにある。
 
 その分かり易い、仏の教えに両親のすでにない自分は、涙がこぼれた。特にその母親のその子を得る苦しみや、その子の成人の後、老いてのちの父母の姿を分かり易い言葉で説く経典の本にこの「吉川英治 宮本武蔵」のことにふれた解説が一行添えてあったことからだった。

 作者である吉川英治さんの、諸々の登場人物に注ぐ眼差しは、あたたかい。又八のようなやや、意志の弱い堕落した生活をおくる身の上にも、その母であるお杉ばばのこの世の我や業(ごう)に対しても、城太郎や伊織のような若い芽の者に対しても、または本阿弥光悦のような身の上の人の上にも慈愛と人生を行く人への哀惜や喜びの眼差しが注がれている。

 小説は、所詮はフィクションではあるが、ここ「吉川英治 宮本武蔵」には、現代の人が持つそれぞれの煩悩にも対応出来うる、様々なエピソードがちりばめられている。心を澄まして、物語の世界に身をゆだねれば、誰でもがその楽しみと人生の有りように考えをめぐらすことの出来る素敵な小説である。


吉川英治とカンカン虫

 本書「宮本武蔵」の著者である吉川英治は、明治25年の生まれで、昭和37年に七十歳で没している。神奈川県は久良岐(くらき)郡の出身。現在の横浜市中区にあたる。幼い頃に父親が事業に失敗をして、家は没落をする。そのために吉川英治は、小学校高等科を中退して働く。店の住み込みの小僧やら、官庁横浜税関の給仕の職と苦しい少年時代を送った。

 「カンカン虫」もやった。これはどう言う仕事かというと、艦船やタンク、煙突などに虫のようにへばりつき、ハンマーでかんかん叩いて、そのさびとり作業をする者である。横浜であれば、さしずめ港に入る船のドックでの船具工といったところか。明治43年に上京をして、新聞への川柳の投稿などから文筆の道に入った。昭和35年に文化勲章を受章。戦時中に家を持った青梅に記念館がある。

 ※武蔵を「漂流者」と捉えた、漫画「バガボンド」と読みくらべてみたい気もする。


宮本武蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)
講談社
吉川 英治

ユーザレビュー:
恃むは一腰の孤剣、畢 ...
たけぞう改めむさし1 ...
魅力一杯!人気作『バ ...
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 宮本武蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック